近世尼崎城は1617(元和3)年、幕命によって築かれた。
本丸は方形で、四隅に四重天守と三重櫓三棟を置き、周囲を多聞櫓(長櫓)・塀で囲んである。本丸は二ノ丸、松ノ丸、東三ノ丸、西三ノ丸,南浜で取り巻き、要所に二重櫓を配したり、門を枡形に構えるなどして防備を固めている。
築城技術の最も発達した時期に建てられたもので、徳川将軍の江戸城・二条城や御三家の名古屋城に匹敵する施設、内容、規模である。天守・櫓・門などは古図や文献資料から建築構成が知られ、当初から存在したと考えられる。
本丸御殿は1846(弘化3)年に焼失したが、間もなく再建され、敷飾り(上段・床・欄・付書院)や特有な平面で構成した広い書院を中心に、玄関・金之間・
上料理の間・御居間・茶之間・台所など多くの建物が造営された。復元模型を見ると、塀を螺旋状にめぐらせた縄張形式の、いわゆる典型的な「平城」であることがわかる。そして、四面同形の整った外観を持つ天守をはじめ、隅櫓、厳めしい門、堅牢な石垣、計画的に配置された
殿舎・侍屋敷・会所・米蔵・馬屋など、往時の雄姿を偲ぶことができる。 |
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尼崎城は、1873(明治6)年の 廃城令により、天守閣、本丸御殿をはじめとする建築物が大蔵省(現財務省)から民間に払い下げられ、さらに石垣や堀なども近代の尼崎が工業都市として発展するなかで姿を消してしまった。今では北城内、南城内という地名、学校名にその名残をとどめているに過ぎない。
しかし、尼崎城と同じ時期にすっかり姿を失ってしまった各地の城に比べ、尼崎城の場合は天守閣をはじめとする建築物、敷地の形態、規模を記した絵図、文書が多く伝えられている。早くには尼崎出身である萩原一青の城絵図による復元もあった。
今回の尼崎城復元模型の制作にあたっては、尼崎城下絵図・尼崎分間絵図(二巻、表/裏)・本丸御殿部分間取図・本丸御殿屋根部分図(兵庫県立歴史博物館)など、桜井神社に残されている桜井松平家の資料を参考とした。
侍屋敷については、各地に残されている侍屋敷城郭古写真などを参考に、五軒屋の一つについては尼崎藩家老城家文書(旧尼崎市立中央図書蔵)の中屋敷平面図を参考に復元している。 |