尼信博物館(尼信会館)

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現代につながる、郷土 尼崎の昔 世界の貨幣を郷土に紹介
城下町尼崎展 コイン・ミュージアム
                       
城下町尼崎展

城下町尼崎  尼崎は、古くから京と西国を中継する港湾都市として栄えました。大坂の陣の後、徳川幕府は大坂城を西国支配の拠点とし、大坂城を中心に、その周りに幕府領、旗本領、譜代大名領を集中させる転封政策をとりました。なかでも尼崎は大坂城の西の守りを固める重要な位置にありました。
 元和3年(1617)尼崎郡代であった一万石の大名、建部政長が林田藩へ転封されかわりに、近江膳所から戸田氏鉄が入部。氏鉄は五万石の尼崎藩主となり、幕府から新尼崎城の築城を命ぜられ完成させました。その後、寛永12年(1635)戸田氏鉄は美濃大垣に転封され、かわって遠江掛川から青山幸成が尼崎藩主(五万石)になりました。さらに青山氏は宝永8年(1711)幸秀のとき信濃飯山へ転封して、遠江掛川から松平忠喬が尼崎藩主(四万石)になり、以後、松平氏は7代にわたって尼崎藩を治め、明治維新を迎えました。
 尼崎藩領内では海産物、農産物の生産、流通が発達しており、酒造、綿、菜種などの生産が盛んでした。しかし、明和6年(1769)今津、西宮から兵庫津までの灘浜手の村が天領として収公され、替地を多可、宍粟、赤穂の3郡内に与えられましたが、西宮、灘、兵庫からの収入がなくなったため、尼崎藩は大きな経済的打撃を受けることとなりました。 
明治2年(1869)版籍奉還が認められ、尼崎藩は廃藩置県により明治4年尼崎県となり、続いて兵庫県に編入されました。 飛び地領のあった多可、穴粟、赤穂の3郡も姫路県に移されました。
尼崎藩領図尼崎市指定文化財

西の城塞、尼崎 尼崎城復元模型
スケール1/300
 近世尼崎城は1617(元和3)年、幕命によって築かれた。
 本丸は方形で、四隅に四重天守と三重櫓三棟を置き、周囲を多聞櫓(長櫓)・塀で囲んである。本丸は二ノ丸、松ノ丸、東三ノ丸、西三ノ丸,南浜で取り巻き、要所に二重櫓を配したり、門を枡形に構えるなどして防備を固めている。
 築城技術の最も発達した時期に建てられたもので、徳川将軍の江戸城・二条城や御三家の名古屋城に匹敵する施設、内容、規模である。天守・櫓・門などは古図や文献資料から建築構成が知られ、当初から存在したと考えられる。
 本丸御殿は1846(弘化3)年に焼失したが、間もなく再建され、敷飾り(上段・床・欄・付書院)や特有な平面で構成した広い書院を中心に、玄関・金之間・ 上料理の間・御居間・茶之間・台所など多くの建物が造営された。復元模型を見ると、塀を螺旋状にめぐらせた縄張形式の、いわゆる典型的な「平城」であることがわかる。そして、四面同形の整った外観を持つ天守をはじめ、隅櫓、厳めしい門、堅牢な石垣、計画的に配置された 殿舎・侍屋敷・会所・米蔵・馬屋など、往時の雄姿を偲ぶことができる。
 尼崎城は、1873(明治6)年の 廃城令により、天守閣、本丸御殿をはじめとする建築物が大蔵省(現財務省)から民間に払い下げられ、さらに石垣や堀なども近代の尼崎が工業都市として発展するなかで姿を消してしまった。今では北城内、南城内という地名、学校名にその名残をとどめているに過ぎない。
 しかし、尼崎城と同じ時期にすっかり姿を失ってしまった各地の城に比べ、尼崎城の場合は天守閣をはじめとする建築物、敷地の形態、規模を記した絵図、文書が多く伝えられている。早くには尼崎出身である萩原一青の城絵図による復元もあった。
 今回の尼崎城復元模型の制作にあたっては、尼崎城下絵図・尼崎分間絵図(二巻、表/裏)・本丸御殿部分間取図・本丸御殿屋根部分図(兵庫県立歴史博物館)など、桜井神社に残されている桜井松平家の資料を参考とした。
 侍屋敷については、各地に残されている侍屋敷城郭古写真などを参考に、五軒屋の一つについては尼崎藩家老城家文書(旧尼崎市立中央図書蔵)の中屋敷平面図を参考に復元している。
監修 松岡利郎 監修 青手木 正

武士の精神と武具●太刀   
鎌倉時代中期の備前畠田の刀匠、初代守家作の太刀で国の重要文化財に指定されています。またこの太刀に付属している蒔絵太刀拵は江戸時代に製作された名品です。寛永17年(1640)の鑑定書「本阿弥光温極書」が添えられています。この太刀は9代忠倶の妻が阿部対馬守重次の娘であった関係で、重次から贈られ、11代忠名(幼名亀三郎)の佩刀となり、のちに飾太刀としたものです。

武士の精神と武具●甲冑
「金子札白糸威二枚胴具足」(写真左)は8代忠重が所用したもので兜の吹返し、胴の胸板には三つ葉葵が据えられています。

「浅葱糸威二枚胴具足」(写真右)は家祖信定が着用したもので甲冑にはところどころに桜の紋が打ってあります。この甲冑は古式の手法がみられる貴重なものです。

尼崎市指定文化財


武士の精神と武具●槍

尼崎市指定文化財 穂先と槍印
 道具槍は、参勤交代のときに用いられた飾り槍のことです。穂先に被せる槍印は木製菖蒲文革張で、特徴のある形をしています。
 槍印によって行列がどこの大名であるかが一目で識別できるようになっています。なお、この槍の穂先は「文殊包定作」(大和手掻の刀匠)の銘があります。

尼崎市指定文化財 槍の穂先(文殊包定作)

武士の精神と武具●大旗 朱地葵紋染抜大旗
 桜井松平家の再興の印として、桜井家に代々伝えられてきた大旗。
 桜井信定の父であり、徳川家康四代前である松平長親(ながちか)の代に決めた家紋「葵」を染め抜いてあります。
 家康が十五歳のとき、三河安城(現愛知県安城市)を巡察していると、この大旗を立て、赤子を抱く一団が目にとまりました。不思議に思ってたずねた家康は、この赤子こそが松平忠頼の嫡子・忠重だと知ります。 
 忠頼は先の浜松城主でしたが、旗本同士の囲碁論争に巻き込まれて、若くして死去。城地は没収されていました。その事情を察した家康は、同族の情から桜井家のお家再興を許し、武州深谷八千石に取り立てました。その後、桜井家は遠州掛川四万石を拝領し、大名の地位を確立していきました。
尼崎市指定文化財

海の守りと砲台 尼崎海辺砲台水深里程絵図
 嘉永7年(1854)にはペリーの再来航やロシアのプチャーチンが軍艦で大阪湾に進入するなど、近畿においても海防問題で騒然となりました。尼崎藩も幕府から兵庫から天保山までを持場とする海岸警備を命じられました。
 尼崎藩では沿岸調査をし、大高州新田、初島新田、未新田、丸島新田、今福村の5カ所で砲台築造に着手しています。

朝鮮からの通信使 信使来聘自兵庫至大坂引船図
 釜山永嘉台下を出発した朝鮮通信使の一行は対馬府中(厳原)に入り藩主宋氏一行とともに江戸へ向かいました。「信使来聘自兵庫至大坂引船図」は兵庫を発って大坂へ至る間で尼崎藩松平家が接待と送迎の役割を担当したときの尼崎藩の船図を描いたものです。上巻143隻、下巻316隻の大小の舟が描かれています。


幕末から明治の貨幣経済 藩 札
 江戸時代、商品経済の発展にともない通貨需要が増大し、その不足を補うために、諸藩が領内において代用紙幣として発行したのが藩札です。経済活動が活発になるにともない、藩札のほか旗本札、自治体札、宿場札、商人札、労賃札など多種多様な紙幣が発行されました。
 このコーナーには尼崎藩札をはじめ姫路藩、明石藩、三田藩、林田藩、出石藩、豊岡藩など藩札と、明治維新前後の兵庫開港札、兵庫県札、太政官札、旗本札、などを展示しております。
 
なお「城下町尼崎」の展示にあたり、桜井神社の資料を数多く寄託を受けて展示しております。

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